高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第8回 ポストメディウム的状況のアニメーション美学をめぐって 「劇場版 響け!ユーフォニアム」 5ページ目 | アニメ!アニメ!

高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第8回 ポストメディウム的状況のアニメーション美学をめぐって 「劇場版 響け!ユーフォニアム」

高瀬司の月一連載です。様々なアニメを取り上げて、バッサバッサ論評します。今回は『劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部でようこそ~』について。

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■ アニメにおけるSNS的想像力
――『AIR』から『けいおん!』、そして『響け!ユーフォニアム』へ

日本の商業アニメーションの世界で、〈映画〉のリアリティではなく、ポストメディウム的状況下の映像=動画のリアリティを元にした作品群と言うと、ゼロ年代中盤以降の京都アニメーション(と今回は触れないが新房昭之×シャフト)をその代表として挙げることができるだろう。

ゼロ年代における京都アニメーションのフィルモグラフィを振り返ってみても、元請け作品での出世作となったTVアニメ『AIR』(2005年)の第8話「なつ~summer~」(絵コンテ・演出:山本寛)における(仮想的な)カメラに水しぶきがかかるショット【注07】、TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年)【注08】の第1話「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」(絵コンテ・演出・脚本:山本寛)における劇中劇制作、同じく第9話「サムデイ イン ザ レイン」(絵コンテ:山本寛)における監視カメラ的ショット(のちのTVアニメ『日常』[2011年]における定点観測ショットへとつながる表現だろう)、TVアニメ『らき☆すた』(2007年)における(同名ラジオ番組とも連動した)劇中番組「らっきー☆ちゃんねる」(企画・放映開始時の初代監督:山本寛)などがすぐさま思い出せる【注09】。

また筆者がかねてより主張してきたように【注10】、『涼宮ハルヒの憂鬱』を〈セカイ系〉からの転換点とし、『らき☆すた』を経て、『けいおん!』シリーズ(2009・2010・2011年)、ことに『映画けいおん!』(2011年)で一つの頂点を極める〈日常系〉も、SNS時代のコミュニケーション環境・様相そのものの作品化(ファンタジーものではない「中高生を登場人物とした学園日常もの」という、〈アニメ〉的ではない舞台設定も重要だろう)であるという点で、やはり映像圏的な見立てと共鳴する問題系だろう。

▼注07:これももちろん、客観視点ではない、映像圏的な主観視点が導入された一例と言える。ただ、いまやありふれた表現になっているがゆえにかえってわかりにくくなっているが、かつての〈映画〉にとっては驚かれるにたる演出であった点は確認しておきたい。
たとえば樋口泰人・稲川方人編の、青山真治・阿部和重・黒沢清・塩田明彦・安井豊が参加した500頁を超える長大な座談会本『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド出版局、2000年)の序文「獏とした広がりを前に」を、樋口はこうはじめる。「どうやらアメリカ映画は、かつてあったアメリカ映画ではなくなってしまったようだ。〔中略〕これは「映画」と呼べるものだろうかとさえ思う」(2頁)。つまり「ハリウッドとは異なるたんなるアメリカ映画」(蓮實、前掲書、177頁)へと変容したのちの(たんなる)映画史、『ロスト・イン・アメリカ』内の言葉を借りて言い換えれば「「アメリカ映画」の80年代、90年代を視界に収めたこの本」(樋口、6頁)で、象徴的な事例として注目されるのが、ヤン・デ・ボン監督作『ツイスター』(1996年)における「画面奥の牛をクルクル宙に舞わせて画面の手前に落とす」(6頁)ショットであった。それに対して樋口は「極論すれば、牛は我々の目の前にまで飛ばされてきたのである。それがはたして「映画」であるかどうかは別にして、我々はまず、そのことに驚く。この本はそんな驚きからスタートしている」(5頁)と語ることになる。そこから約10年後に描かれた、TVアニメ『AIR』におけるこの『ツイスター』に連なる演出も、もちろん表現としての起源という点では十年単位で遡れるものだろう(たとえば映画ならば、少なくともエドウィン・S・ポーター監督作『大列車強盗』[1903年]という、〈映画〉成熟以前まで遡れる)。
しかし他方でこうした想像力が、TVアニメ『AIR』というYouTube元年である2005年の作品において大々的に姿を現し、京都アニメーションのその後のフィルモグラフィにおいて全面化されていくことの時代的同期性は無視できないように思われる。今後はグロス回まであらためて調査しなおすことで、より精緻化したい論点である。

▼注08:『涼宮ハルヒの憂鬱』もすでに放映から10年を経て古典化が完了したため、現在の視聴者へ向け事実関係を補足すると、2006年の本放送時には時系列をシャッフルした放映が行われ、また2009年には新作となる14エピソードを加えた全28話が放映されている。そのため表記の混乱が起こりがちだが、ここでの「第1話」「第9話」とは2006年のTV放映順に従ったものである。それぞれ2006年版の時系列順では第11話と第14話、2009年版では第25話と第28話となる。

▼注09:関連して、当議論とは別文脈からTVアニメ『AIR』の演出を論じたものとして、『Merca β03』(2016年5月)における座談会(小森健太朗×坂上秋成×高瀬司、2015年10月収録)がある。そこで筆者は、ゼロ年代後半、京都アニメーションがコンポジット・ワーク(撮影処理)や特殊効果によって生み出したビジュアルイメージが、(新海誠という参照項を挟みつつ)どのような物語的想像力によって要請されたものであったかの分析を試みた。

▼注10:〈セカイ系〉の隆盛から、〈日常系〉の勃興と退潮に至るまでの想像力の変遷を、情報社会論的にとらえ返す見立て。これまで幾度か書いてきたテーマだが、直近では前述の『Merca β03』のTVアニメ『AIR』論座談会でその概略に触れている。本連載でもいずれ詳細に展開したい。
《高瀬司》
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