高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第8回 ポストメディウム的状況のアニメーション美学をめぐって 「劇場版 響け!ユーフォニアム」 2ページ目 | アニメ!アニメ!

高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第8回 ポストメディウム的状況のアニメーション美学をめぐって 「劇場版 響け!ユーフォニアム」

高瀬司の月一連載です。様々なアニメを取り上げて、バッサバッサ論評します。今回は『劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部でようこそ~』について。

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■ すべての〈映画〉は「映像=動画」になる

馴染みがない方へ向け、まずは前提となる文脈を振り返る。
映画批評の場においては、(ことに日本やフランスでは)〈映画 cinema〉を、「映像=動画」【注02】とは異なるものとして特権視する(「映像=動画」を敵対視する)言説が長らくヘゲモニーを握ってきた。〈映画〉を自律した作品ととらえ、スクリーンに生起する〈運動〉を純粋に経験する場と信仰するこうした映画観に対して、21世紀初頭(ことに2010年代以降)の現代、「ポスト・メディウム論」的な態度が一つの潮流をなしはじめている。

▼注02:「映像」という言葉には対応する英語が存在せず、「動画」という言葉もアニメ業界では慣例的に“in-between animation”の訳語として定着している(あるいはさらに遡れば政岡憲三により「漫画映画」に代わる“animation”の訳語として提唱されていた)ため、どう呼ぶのが適切なのかは判断がむずかしい。「動画像」や「動く映像」といった表現も見るが、(アニメ用語としての「動画」に別の訳語を当てることができればもっとも整理が進むと思われるとはいえ、さしあたって)ここでは結論を保留にし、便宜的に「映像=動画」と呼び表すことにする。

簡略に説明すれば、「ポスト・メディウム論」とは、美術批評家のクレメント・グリーンバーグによる「メディウム論」【注03】を批判的に継承した概念と言える。
「ポストメディウム的状況(ポストメディウムの条件) post-medium condition」においては、1999年に『北海航行 ――ポストメディウム的状況における芸術』(Rosalind Krauss, A Voyage on the North Sea: Art in the Age of the Post-Medium Condition. New York: Thames & Hudson Inc., 1999)を著した美術批評家のロザリンド・クラウスと並んで(特に美術批評以上に、映像文化論・視覚文化論の場においてこそ、別文脈ながらも共鳴しつつポテンシャルを発揮しているという意味で)その代表的論者とされるレフ・マノヴィッチが「ニューメディア論」として論じるように――「マノヴィッチによれば、デジタル時代において個々のメディウムはコンピュータ内のデータや演算に還元され、ソフトウェア上で並置されるそれらメディウムのあいだの根源的な差異は消滅」(門脇岳史「メディウムのかなたへ――序にかえて」『表象08』「特集:ポストメディウム映像のゆくえ」月曜社、2013年、13頁)した結果――〈映画〉は(支持体と受容形態の両面において)そのメディウムとしての自律性を失い、「映像=動画」データのなかの一要素と見なされるようになる。

▼注03:各メディウムの固有性(メディウム・スペシフィシティ medium specificity)への純化を志向する美学。アニメーションを例に言いなおせば、その固有性を作画=アニメイトの快楽に求め、それをアニメの美学的本質と見なすような還元主義的パラダイムがそれに相当する。筆者が直接関わったなかでは、『アニメルカ vol.4』(2011年6月)に掲載した、いまでは『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社、2014年)で知られる、視覚文化論における日本の代表的批評家・石岡良治との対談で、こうしたフォーマリズム的(メディウム論的)なアニメ観から、ポストメディウム論的なアニメ批評への転換の理路を――そして翻ってフォーマリズムのこれからのポテンシャルを――具体的な作品分析を交えながら概観した(念のため言い添えるが、これは作画への注視を否定するものでもなければ、「アニメならでは」という評価軸を完全に無効化しようとしているわけでもない)。またこの転換の重要性が現在、刊行時以上に増してきていることを受け、対談記事からこの論点に関わるパートを切り出し『テヅカVS四コマ――『あずまんが大王』は『まんが道』を殺したか』(2015年12月)に再収録している。

そうしてマノヴィッチは、(1990年代におけるデジタル化の全面的な進展がもたらした「ニューメディア」の美学的諸相を体系的に分析する)著書(Lev Manovich, The Language of New Media, Cambridge, Mass.: The MIT Press, 2001)の第6章「映画とは何か?」において、ポストメディウム的状況における〈映画〉ならざる「映画」を次のように定式化する。

「デジタル映画とは、多くの要素の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケースである」
(レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語――デジタル時代のアート、デザイン、映画』堀潤之訳、みすず書房、2013年、414頁)

アニメーション(映像=動画=デジタルデータ)の特殊ケースと化した「映画的なもの」【注04】。
この見立ては、2001年の原著の刊行以来、ことあるごとに引用されつづけてきたのみならず、具体的な作品としてはその後のフル3DCG映画『ファイナルファンタジー』(2001年)、実作者の言葉としてはアニメ監督・押井守の「すべての映画はアニメになる」というテーゼによって、日本のアニメファンにも広く知られることとなる。

▼注04:デジタルデータに一元化したという認識のもと、その後のマノヴィッチはプロジェクト「カルチュラル・アナリティクス」で、各時代の映画をショット数で定量分析するといったアプローチを進めることになる。
《高瀬司》
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