高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第1回 「のんのんびより」と「シンデレラガールズ」を数える 3ページ目 | アニメ!アニメ!

高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第1回 「のんのんびより」と「シンデレラガールズ」を数える

高瀬司さんの新連載。様々なアニメを取り上げて、バッサバッサ論評します。毎月第3金曜日連載予定。宜しくお願いいたします。

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『のんのんびより』や『アイドルマスター シンデレラガールズ』を観るとき、人はふとした瞬間に、ショットやカメラへの意識に誘われる。
つまりここには、ストーリーやキャラクターへの没入と平行するかたちで、同時に(過剰なショット数などなしに)カメラやカッティングといったアニメの表現装置へと意識を向けうる契機が張り巡らされているわけだ。そしてまた、これに近しい事件は、たとえば『けいおん!』や『ゆゆ式』、『ラブライブ!』の視聴のうちにも遭遇させられはしなかったか。
しかし、日常系アニメやアイドルアニメをめぐってはいまだ、コンセプトとしての〈日常系〉〈ポスト日常系〉という批評的アングル以前に、より素朴な映像的な強度や詐術の側面ですら十分には認知されていないように見える。
レイ・ブラッドベリの『華氏451度』に連なる社会派アニメ『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』は、深夜にTV放映されているだけであれば、単に反規制派の溜飲を下げるだけの作品になってしまいかねなかったところ、BPOの審議にかけられることによって届くべきところへとリーチすることに成功した。
同様にこれらの作品が、いわゆる「日常系アニメ」ファンや「アイドルアニメ」ファンはもちろん、有機生命体であれば必ずや視聴すべき一作であることはこの場を借りて強調しておきたい。


【注釈】
※注1:第1話にはEDがないが、比較しやすくするため、エンドテロップが登場以後の1分30秒間のショット数はカウントしていない。他のエピソードもEDがないことが多いが、同様のスタンスによる。またこの第1話に関してはやむなくカウントしたが、他の作品/エピソードのショット数に関しては、現実的なコストの関係上だいたいが目算の数字になっている。筆者はかつて、実写映画のショット数を意識的にカウントしていたことがあるのだが、あの時期の疲弊ぶりに比べると、TVアニメはおそらくその短さやフォーマットの存在から、ショット数を目算することのハードルはだいぶ低い。厳密な数字とのズレは避けえないが、以前いくつかの作品に関して目算ののちカウントして確かめてみたところ、プラスマイナス10%以下の誤差には収まっていた。とはいえやはり、「この作品、いくらショットを細かく割っているとはいえ、どう見ても400ショットはないだろうから、およそ380ショット前後だろうね。念のためカウントしながら観直すと……。410ショットか……。やっべー、誤差はたったの8%以下だから、また目算だけで当てちゃったよ!」程度の精度のものとして参照いただきたい(し、間違いがあればぜひ正しい数字を教えていただきたい)。
※注2:ショットがとらえるものの分類・分析に関しては、それだけで記事がまとまるテーマなため、また別途機会を設けたい。
※注3:『涼宮ハルヒの憂鬱』の「ライブアライブ」(2006)が山下敦弘監督の手がけた実写映画『リンダ リンダ リンダ』(2005)のカット割りを下敷きに作られていることは有名だが、『のんのんびより』の第4話「夏休みがはじまった」におけるこの一連のシーンも、同じく山下敦弘監督の手がけた、小中学生あわせた全校生徒6人のド田舎の分校に東京から転校生がやってくるところからはじまる実写映画『天然コケッコー』(2007)のお祭りのシーンにおいて、(途中何度かお祭りの舞台上をとらえたショットがインサートされるとはいえ)立ち尽くしたままゆっくりと泣き出すヒロインを固定カメラでとらえつづける2分近いシーンとの呼応を感じ取ることができる。セカイ系から日常系への転換点と見なせる『ハルヒ』で行われたオマージュを、日常系作品である『のんのんびより』において二重化して展開するという仕かけは、偶然であるとすればいささかできすぎなくらいである。また余談ながら、『涼宮ハルヒの憂鬱』の「サムデイ イン ザ レイン」のショット数はおよそ150程度で、最長の長回しはフィックスで2分15秒を超える。
※注4:なお第1期第4話の描写は、原作でも泣き出すまでに4つのコマにもわたりれんげを正面からとらえつづけるため、一応準拠したものと言うこともできるだろうが、まるでリピート性を強調するかのように、第2期第4話の長回しは原作にはない完全なオリジナルである。
《高瀬司》
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