冲方丁が語った「物語のちから」 CEDEC 2014基調講演 | アニメ!アニメ!

冲方丁が語った「物語のちから」 CEDEC 2014基調講演

CEDEC初日に作家の冲方丁氏は「物語の力」と題して基調講演を行い、偶然に彩られた人間の経験と、必然によって規定された物語の関係性について、物語の種類や歴史を紐解きながら論じた。

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CEDEC初日に作家の冲方丁氏は「物語の力」と題して基調講演を行い、偶然に彩られた人間の経験と、必然によって規定された物語の関係性について、物語の種類や歴史を紐解きながら論じました。そしてテーブルトークRPG(TRPG)を例に出しながら、偶然性と必然性を融合させたメディアはゲームしかないと分析し、「ゲームが今後、数百年の新しい物語を作っていくかもしれない」とエールを送りました。

SF小説『マルドック・スクランブル』シリーズや時代小説『天地明察』の著者であり、アニメ映画『攻殻機動隊ARISE』でシリーズ構成と脚本を手がけるなど、ジャンルやメディアを越えて活躍する冲方氏。一方で修業時代、ゲーム『セガガガ』でシナリオを手がけるなど、ゲーム業界と縁が深い人物でもあります。そんな冲方氏は「自分を育ててくれたゲーム業界に恩返ししたい」と切り出し、論を進めていきました。

冲方氏の講演をまるっとまとめると「物語は経験によって生み出されるが、経験は混沌としているため、そのままでは物語にならない。物語になるには、経験に含まれる要素が抽出され、時系列にそって再編集される必要がある。言い替えれば、混沌とした経験を秩序化したものが物語である」となります。その上で「人間は偶然に興味を持つ生き物であり、偶然を解明して秩序立てようとする欲求を常に持ち続けている(ゆえに人は物語を欲する)」と分析しました。

一例をあげると化学は自然界という現象を観察し、仮説を立てて実験を繰り返し、法則を見つけ出す学問だといえます。つまり偶然に挑戦して必然を見つけることに他なりません。原始宗教における「罪を犯せば罰が与えられる」というテーゼも、そうすることでコミュニティが適切に維持され得るという、社会集団における法則だといえます。つまり両者は広義の意味での「物語」なのです。

一方で人は運命が全て規定されると、生きる気力を喪失しがちであるという、矛盾した性格もあわせもっています(こうした題材はSFにしばしば登場します)。偶然を秩序化したい反面で、偶然を求める不思議な生き物なのです。人が気晴らしに運試しをするのは、この好例です。ギャンブルは胴元が一番儲かるとわかっていても、自分だけはと熱中してしまうのです。冲方氏は「運試しは個人の経験に裏打ちされた物語で、必然や法則というのは間接的な物語だから」と分析します。

ここで例にあげたのが「ダンジョンズ&ドラゴンズ」などに代表されるTRPGです。TRPG自体の説明は紙幅の都合で省略しますが、コンピュータRPGでコンピュータが行う判定をゲームマスターと呼ばれる人間が行いながら、座談(テーブルトーク)形式でゲームを進める、ルールに則った即興劇のようなものだと考えれば良いでしょう(余計混乱する説明かもしれませんが)。

TPRGは「ゲームマスター」「ルール」「ダイス(サイコロ)」という3つの要素から成立しています。良くできたTRPGのセッションは冒険譚を疑似体験するかのような興奮と現実感を参加者に与えてくれます。

このとき人はTRPGのどの要素に現実感を覚えるのでしょうか。冲方氏は「ダイス」だと指摘します。ゲームマスターもルールも間接的な経験にすぎませんが、ダイスをふるという行為は前述の通り個人的な経験だからです(セッションがだれたら、とりあえずダイスを振らせろというのは、TRPGの有名なセオリーの一つです)。TPRGを人生になぞらえれば「自分というダイスを常に振り続けることが人に生きる実感を与えてくれる」ともいえるでしょう。

話を整理すると、人は混沌から秩序を求める一方で、混沌を求める矛盾した生き物です。混沌とは個人的な経験であり、秩序とは間接的な経験です。個人的な経験は、そのままでは物語になりませんが、間接的な経験は物語として共有化できます。両者は長く別個の存在でしたが、TRPGが両者をはじめて融合させました。そして、これに影響を受けて、ゲーム業界では新しいタイプの物語が続々と生み出されてきました。コンピュータRPGもその一つです。「偶然から必然へ、そして偶然へ・・・ゲーム(における物語)と文芸は同じコインの裏表であり、車輪の両輪です」(冲方氏)

ちなみに冲方氏の講演では、経験には「個人的な経験」「間接的な経験」「神話的な経験」「人工的な経験」があり、物語においても「神話」「宗教的な物語」「武力を背景とした権力者の物語」「民話・寓話」「大衆娯楽」「個の物語(吟遊詩人・騎士道物語)」「近世の物語」「現代の物語」に分かれるなど、多岐にわたるものでした。本稿では紙幅のためバッサリと割愛させていただいたことを補足しておきます。

■思わず白熱した質疑応答

また講演内容は基調講演らしく概論的で聴講者に大きな刺激を与えるもので、質疑応答が盛り上がったことも付記しておきましょう(本講演は外国の学会発表のように基調講演でも質疑応答にたっぷり時間がとられ、開発者会議の名にふさわしい内容でした)。その幾つかを紹介します。

はじめに「物語が大量生産される今日のような時代に向く、物語のジャンルや特性とは何か」という質問がなされました。これに対して冲方氏は「登場人物を増やして、中心点を曖昧にするのがよい」と回答しました。例として上げられたのが『ドラえもん』です。『ドラえもん』の物語をひとことで説明すると「未来のロボットが提供する便利な道具を欲しがる少年をとりまく少年少女たちが送る日常の物語」となります。これを「ドラえもんが未来の道具でのび太を指導する物語」と規定すると、とたんに教訓めいてしまい、物語に幅が出なくなるわけです。ここからゲーム『ガンパレード・マーチ』や、AKB48の総選挙を連想するのは容易でしょう。

「ゲームはゲームパートとストーリーパートのサンドイッチ構造から抜け出せないが、対策は?」という質問もありました。これに対して「自分にはわからない」と前置きした上で、「ポイントは融合ではなく、ストーリーにどのような価値を見いださせるかだ」と補足されました。

囲碁や将棋でいえば差し手が交互に刺している状態がゲームで、先の見通しが立たない混沌とした状態です。これに対して棋譜はゲームの結果であり、読み手が棋譜を通して対戦を疑似体験できる間接的な経験で、つまり物語です。この棋譜を通して読み手は各々の価値基準で対戦価値を規定できます。つまりゲームと物語を融合させるのではなく、たとえ両者が別れていても、物語の価値を生み出すことができるのです。この議論は昨今話題になることの多いナラティブ論とも関係しています。

このほか冲方氏はゲームは「二人称視点のストーリー」だと分析しました。ゲームをプレイする過程でプレイヤーは様々な情報をゲームシステムから受け取ります。これは見方を変えれば「あなたはこういう状態である」「あなたは戦っている」「あなたは死にそうだ」「あなたは魔物を倒した」という二人称視点の物語を体験していることになります。これはゲームでしかほぼ実現しておらず、ぜひ独自に発展させて欲しいと語りました。「ゲームの二人称視点と、小説が得意な一人称視点や三人称視点のストーリーが共に洗練されることで、いつの日か真に融合する日が来るかもしれません」(冲方氏)

『風ノ旅ビト』『LIMBO』のような、テキストを使わずにストーリーを体感させるゲームについての質問もありました。冲方氏は「小説にも台詞や心理描写がほとんどない作品があるし、映画にも『2001年宇宙の旅』のような抽象的な作品もある」と分析。こうした作品では一つの記号に複数の意味が常にこめられているような状態が保たれており、「動く絵で文字をデザインしていること」に近いと結論づけました。その上で「『ICO』などもそうしたゲームの一つですよね。好きです、としか言いようがない」と語りました。

【CEDEC 2014】ゲームが新しい物語の形を作っていく・・・冲方丁氏が基調講演で語った「物語のちから」

《小野憲史》
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