……Nがあまりにまくし立てるので僕は、ふっと気が遠くなりかけた。映画自体が気に入っているなら、ここまでマシンガントークすることもないと思うのだが、まあ、そんな疑問をいうとかえって話が長くなるので、そんなことはいったりはしない。それにしても、学生時代に見たばかりのアニメについて文句や賞賛をH先輩にぶつけていた自分が、まさかこんな目にあうとは。苦笑しつつ僕は、H先輩に仕込まれた知識を総動員してNの疑問について応えてみることにした。「どこから話そうかな」と、僕はゆっくり考えながら切り出した。「順番通りじゃないけどいいかな」4)について――「(笑)二郎のお母さんと菜穂子が同じ髪の色っていうのはよく気付いたねぇ。既にネットとかで指摘があるけれど、菜穂子には、脊椎カリエスを病んで長く床についていた宮崎監督のお母さんの印象がかぶるところがある。このお母さんの病気という要素は、『トトロ』でお母さんの不在という設定にも反映されているといわれているね。とすると、二郎の母親と菜穂子にそのイメージが多少分割されていても不思議ではないかなぁ。もっと単純に、髪の色のヴァリエーションとして近くなったと考えてもいいけど……あそこまで同じだったら、それはないか。二郎が、菜穂子を気に入ったのは、無意識のうちに母親に似ていると思ったからと解釈しても許されるかもしれない。……それについての文句はまた後で(笑)」2)について――「それから、泉での再会について考えようか……。『風立ちぬ』はシーンとシーンの間の省略が大胆なんだよね。泉のシーンに至るには、普通なら菜穂子が、『パラソルを拾ってくれた人が、震災の時に自分を助けてくれた人だとわかるシーン』があって、『泉で祈ってくるところに、後ろから二郎が現われる』だったら、今よりずっと素直に見られると思うんだよ。でも今回はそういう段取り的な部分をものすごく省いているからそうはならなかった。さらに、菜穂子の視点を最小限に絞り込んでいるというのもある。だから、パラソルをつかまえることがきっかけになるという『10年ぶりの奇跡的偶然による再会』をの偶然性が強調されて、あのあたりが、一層独特な作り物っぽさが浮かび上がったんじゃないのかなぁと。あのね『太陽の王子ホルスの大冒険』って高畑監督の初映画があるんだけど、主人公ホルスとンヒロイン・ヒルダが出会う場面が、かなり不自然と言っていいほど不思議な雰囲気なんだよ。高畑監督自身の分析では、『ホルスとヒルダを会わせようとする黒幕の意向』と『主要人物の出会いを印象づけようとする映画自体の演出』が二重になっているからではないかというんだけれど、泉のシーンは、『省略するという語り口(映画の演出)』と『菜穂子の突飛な行動』が二重になってるんで、芝居がかって見えたんじゃないかなぁ。え、なんで菜穂子が泉にお礼を言ったかって? 『トトロ』で大きなクスノキにお礼を言ったのと同じじゃない?」(Nは『ホルス』なんて知らない、といったけれど。とりあえずは無視して話をすすめた)Nは僕がとりあえず語った2つの解説についこうて、納得したようなしないような顔をしつつ言った。「じゃあ、1)と3)はどうなったの?。そもそも、どうしてあんなにかっこよすぎるのかは、まだ全然わからないし」というわけで、僕はまだしばらくは菜穂子について考えざるを得ないようだ。
庵野秀明監督はなぜ「シン・エヴァ」で“絵コンテ”をきらなかったのか?【藤津亮太のアニメの門V 第69回】 2021.4.2 Fri 18:15 アニメ評論家・藤津亮太の連載「アニメの門V」。第69回目は、庵…